News Letter

 

CFNJ HOMEに戻る

↓クリックすると新しいウインドウが開き、保存する事が出来ます。
メッセージ「時を知る」(再臨の備え) PDF版

「時を知る」(再臨の備え)

kajikawaCFNJ聖書学院 学院長 鍛冶川利文

「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。 そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マルコの福音書13章28~31節)

あけましておめでとうございます!


■2011年、新しい年の始めに皆様の祝福をお祈りいたします。これからはじまる新しい年に、神様が何を備えておられるのか、大きな期待を持って歩み始めていきたいものです。これからの1年、私達を取り巻くこの世界にいったい何が待っているのでしょうか?依然続く経済的な不況、テロとの対決や国家間のナショナリズムの高まり、悪化する環境破壊、高齢化と少子化で歪む日本社会。異常気象による食糧難など、私達を取り巻く環境や状況はどこも悪化していくように思えます。世界の各分野の専門家もこれから先の10年に良い見通しを語る人は少ないようです。しかし、神は常に私達に最善を計らう御方です。

エレミヤ29章11節には「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」又、ローマ書8章28節には「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。ですから神の御心はいつも変わらず、愛する者に、又、神を求める者には常に良き業をあらかじめ備えていてくださるのです。しかし、問題は私達がその神の備えや良き業にどのように応答するかです。昨年、NHKの大河ドラマで「坂本竜馬」が大人気でした。日本の明治維新の立役者と呼ばれるこの人物は、今も多くの日本人の心をつかんでいます。その魅力とはいったい何でしょうか?それは激動の時代の一歩先を見ながら、個人や藩と
いった狭く小さな利益でなく、国や時代、平等と自由という広い目的の為に行動した人であったからではないでしょうか。私達も今の時代、この先をどのように見ながら、どのように歩めばよいのか考えてみたいとと思います。

1、時を知り、時を悟る。

「イッサカル族から、時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている彼らのかしら二百人。彼らの同胞はみな、彼らの命令に従った。」Ⅰ歴代誌 12章32節

■第一歴代誌にはダビデの下に来たイッサカル族は少数派でしたが「時を悟る者達」であったとあります。彼らは天文学に通じ、天候の予測や1年を通じての収穫の時期など、人々に時を告げる役割を担っていました。しかしそれ以上にイッサカル族は時代という時を見ていました。サウル王が死に、ダビデ王の時代になるのに先駆けてダビデの下に従いました。それは「主のことばのとおり」(23節)とあるように神が既に預言されていたことであり、これからの時代の流れをいち早く理解し、イスラエルの統一とダビデ王国の到来を先導しました。

■今の時代の人々の心の状態は、極端な利己的な個人主義に傾いて来ていると思います。世界の全体の利益より自国の利益、社会全体より自分の家庭、自分の家庭より自分の利益を優先する傾向。これはポストモダンと呼ばれる傾向です。自分中心に考え、他のどのような形式、権威、伝統にも縛られない自己中心的な生き方を主張するものです。これはⅡテモテ3章に出てくる終わりの時代の印です。 「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者となり」(Ⅱテモテ3章1節・2節)
このような時代にこそ必要な事は聖書の真理を人々に伝える事です。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(Ⅱテモテ4章2節)人々が自分勝手な生き方を主張する時代にあって、聖書の御言葉を語ることこそ急務であり、人々を真理へと導く唯一の方法です。

2、時を量り、時を待つ。

■ギリシャ語には「時をあらわす言葉」として2つの言葉があります。1つはクロノス、これは「流れていく時」を意味し、量的な時間。そしてもう1つはカイロス、これは質的な時間で「一瞬、好機」をあらわす言葉です。
マルコ福音書では、イエス様は洗礼後にガリラヤに行き、「時は満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節)と宣言されました。この時がまさに「カイロス」の時です。ですからカイロスは「満ちる時」とか「熟す時」とかいう意味が込められています。それは、神の摂理の中で神が御定めになった時です。
Ⅱペテロ3章10節には「主の日は盗人のように来る。」とあります。この主の日は「主の再臨の日」の事です。当時、ペテロの手紙が書かれた時代は、主の再臨が伝えられてから数十年が経ち、人々の心の中に「いったい主の日がいつ来るのか?」という不平や不満の声が聞かれました。「次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」(Ⅱペテロ3章4節)当時の人々は、来る来ると言いながら、何一つ変わらない現状に強い不満を感じていました。今の私達の時代にも同じような不満があるのではないでしょうか?いつまで経っても日本にリバイバルが来ない。いつまで経っても家族が救われない。いつまで経っても教会は成長しない。しかし、主の日は必ずやって来ます。それは、早すぎる事も遅れることもありません。主が御定めになった時に必ず訪れます。
■私達はこの時を迎えるにあたりどのような態度をとるべきでしょうか?3つの態度があると思います。

1、状況が変わることより自分自身を変える事。(ローマ12章2節)

■ローマ12章2節「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」この世に倣うものでなく、神に倣うものでありたいと願います。

2、自分自身に与えられた神からの賜物、タラントを充分生かして生きること。(マタイ25章21節)

「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25章21節)再臨までの間、私達が主から求められていることは、クロノスという時間の流れの中で、いかにカイロスを意識して生きているかという事です。 私達は誰もが「クロノス」という時間の中で生きています。しかしただ時の流れの中で流されて生きていくのでなく、常に神の時「好機、チャンス」を活かして生きていくことが問われているのです。1タラントの僕(しもべ)はクロノスだけを意識して歩んでいました。しかし、主が望まれることは、いかに効率を上げたかではなく、機会(賜物)をいかに活かしたかが問われていることなのです。

3、主の日を忍耐を持って待ち望むということ。(Ⅱペテロ3章9節)

■神は「その日を」遅らせているのではなく、「それはひとりでも滅びる事を望まず、全ての人が悔い改めるように願って」(Ⅱペテロ3章9節)おられるからです。主が忍耐を持って待っておられるならば、私達も当然忍耐を持って主を待ち望むべきです。主の日はクロノスに生きる人々にとっては「滅びと裁きの日」ですが、カイロスに生きるものにとっては「希望と喜びの日」です。神の約束を信じ、主の「時」を待ち望みましょう。
「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」 Ⅱペテロ3章12節・13節