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ニュースレターNo121より

父なる神の願い (父の願いは子供を喜ばせる事)

 CFNJ聖書学院 学院長 鍛冶川 利文 師

「彼がまだ話している間に、見よ、 光り輝く雲が
 その人々を包み、そして、雲の中から、 『これは、
 わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。 彼の
 言うことを聞きなさい。』という声がした。」
              (マタイ17章5節)

この個所はあの有名な変貌の山での出来事です。イエス様が三人の弟子を連れて高い山に登り、そこで弟子達は実に驚くべき光景を目にします。イエス様の御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は眩しく光り白くなります。しかもモーセとエリヤが現れ、イエス様となにやら話をします。その光景は正に超自然の荘厳で神秘的な光景でした。弟子のペテロは驚きと恐怖のあまり正気を失います。


このような状況の中、天からの神の声がありました。その声は天を引き裂くような激しい調子ではなく、むしろその場を包み込むようなやさしい言葉でした。「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」この言葉は他にマタイの福音書の3章17節にも記されています。パプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、イエス様が公生涯を始められる時にも同じ言葉が語られました。イエス様にとってこの言葉が語られた時は、これから重大な使命を果たそうとする正に人生のターニングポイントのような大変な時でした。この言葉の内容は何か深い啓示とか、壮大な預言で深い解釈が必要ということではなく、むしろ単純な「私があなたの父であり、あなたの事をいつも見守っているよ」という天の父からの優しい呼びかけです。

父が子供の人生を見守り、その重大な局面に優しい言葉をかける、その言葉はどれほど子供を励まし勇気づけ支えることでしょう。神という存在が「父」であり、その「父」が「子」という存在を喜び、いつも見守っておられる。そしてこの言葉こそは聖書全体の本質的なメッセージでもあります。キリスト教は一言で言うと「父親の真心の教え」です。これは、難しい教理の問題ではなく、実感です。

最近のニュースを見ると、家庭崩壊、家族がみなバラバラで、親が子供を虐待し、殺してしまうような痛ましいニュースばかりです。 今の時代は親子の関係が破壊されているような危機的な時代です。

でも聖書に出てくる父と呼ばれるお方は、例えどんな事があろうと見離さず、見捨てず、最後まで愛し守り続けて下さるお方です!

 1.「父と子の関係」

イエス様はいつもご自分が天の父の子供である事を強く意識していました。弟子達はイエス様と長く一緒に過ごしました。共に道を歩き、畑や山を越え、町を通り、湖や川の辺で座りながらいろいろな事をイエス様から聞きました。又、病や悪霊に憑かれた人を癒され、ある時は死人を蘇らせ驚くべき御業を弟子達は目撃しました。そんな中で弟子達は、どうしてイエス様はこのような事が出来るのだろうか?この力はいったい何処から来るのか、この方は普通の人とはどこか違う。ただの人ではないという事を知っていきます。そんな中、イエス様が祈りを終えられた時、思い切ってこう訊ねます。「イエス様、どうか私達に祈りを教えてください!」この個所はルカの福音書11章1節の言葉です。恐らく弟子達は、この方の不思議さは、この祈りの中にその秘密が隠されているのではないだろうと考えたかもしれません。そこで、弟子達はもっと熱心に、力強く、長く祈る事が出来るように、その祈りの秘訣を教えてください!と強く願いました。しかし、イエス様の答えは非常にシンプルな答えでした。それは「父よ!」「天におられるわたした達の父よ!」という呼びかけです。先ず祈りの最初に「父よ」と呼びかけることは当時のユダヤ人社会では衝撃的な言葉でした。当時、イスラエルでは、神を父と呼ぶことはありませんでした。イスラエルの国家の父という概念はありましたが、個人的に呼びかけたりは出来ませんでした。でも、イエス様は「お父さん!」こう祈りなさい教えます。この呼びかけは、祈りは先ず、この立場を認める所からはじまるのだという事を弟子達に教えるためでした。祈りはまず「する」という行為からではなく「ある」という立場から始まります。つまり「DO」ではく、「BE」〜子であることを認めることからはじまるのです。


2.父の願いは子供を喜ばせる事

 私は聖書の放蕩息子の個所(ルカ15章)を読むと、天の父がなんと子供に甘いお父さんであるかに驚きます。これでは正に親バカです。子供の性格をよく知っていながら敢えて財産を分け、あげくの果てに使い果たし、無一文になって帰ってくる息子をずっと待ち続け、やっと帰って来た子供に自分から駆け寄り、受け入れ、赦し、なんと家中で一番良い服を着させて宴会まで開きます。こんな親がいるでしょうか?いたとしたらそれはチョット甘やかせ過ぎに思います。でも、これが神の真実な姿です。聖書の神である天の父は私達子供にこのようにして下さるのです。驚くべき愛の方です。つまりそれは100%の受容ということです。受け入れてくださると言う事です。その際、子供の出来不出来は関係ありません。いやむしろ出来の悪い子供こそ可愛く、心配です。これが子供として扱うという事です。

 子供は親にとって特別な存在です。子供とは特別扱いされるものということです。でも、それはただ甘やかされるという事ではありません。子供として扱われるという事は、親は親としての責任を最後まで果す為に全力を尽くすという事です。

 親は子供の言う事を何処まで聞くのか?又、子供は親が自分の願いをどこまで聞いてくれるのか?これが問題です。以前、歯医者に言った時、3〜4才の女の子が親と共に歯の治療を受けていました。先生が注射をしようとした時、その女の子は激しく泣きながら、叫び続け、結局、親も医者も根負けして治療を止めてしまいました。終わった後、待合室でその子は一生懸命母親に弁解をしていました。なぜ注射が嫌だったか、実に達者な言葉でお母さんに長々と説明しました。でも最後に親は子供の目をしっかり見つめてこういいました。「わかったよ、でもね、だからといってこれで終ったら虫歯はひどくなってもっともっと痛い思いをしなけれならないの。だから、明日は必ず治療を受けるのよ!」と。お母さんの真剣な眼差しを見て子供は「うん!」と素直にうなずきました。子供の必死な願いで、親の心が変わる事があるかもしれません。しかし、子供にとって必要な事は、親は必ずやり遂げるという事です。

3.子供の願いも親を喜ばせる事

 ヨハネの福音書4章にあるサマリヤの女との出会いの時、イエス様が語られた礼拝者の条件があります。それは、父が望んでいる礼拝者の姿は、「霊と真によって礼拝を捧げる」ものだという言葉です。これは、親が願う子供の姿です。つまり、霊とはその人の本質、ありのままの姿です。礼拝は、形や儀礼的な肉の部分で行なうのではなく、霊というその人の本質をあらわにして、さらけ出し、子供らしく神の前に出ること。そして、真とは正直に真実をもってという意味です。つまりこれは親から愛されている子供らしく、子供として親に接する。それが親が最も願っている事です。そして、その子供の願いは、子供なりに何とか親を喜ばせたいという事です。

 以前、私の妹が母親といつも仕事の帰り、一緒に買い物をして帰っていました。ある時、母親がショーウインドーの中の素敵なバック(皮の高級そうなバックです)を見て、「高そうだね。チョット手が出ないわね」そう言いながらいつも帰りました。そんなある日の帰り道、母親がいつものショーウインドーに目をやるとそのバックがありません。母親は「誰かが買ってしまったんだね。残念!でも仕方がないよね。いつまでも売れないとお店も困るからね」と言いました。でも内心はとても残念そうにしていました。その日、家に帰ってから妹は、いきなりパンパカパ〜ンと言って、母親に一つの包みを渡しました。その中身はあのバックでした。実は妹は母親の喜ぶ顔が見たくてお金を貯めて買っておいたのです。母の目には涙が溢れていました。あまりにも思いがけず突然だったのでビックリしたのです。母親が喜んだ事は言うまでもありません。子供にとっての最大の願いは、親を喜ばせる事です。

私達は天のお父さんの子供である事をしっかりと理解しなければなりません。

イエス様はこう言いました。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」マタイ18章3節  

私達は天の父の子供です。愛されている子供としてこれからも父の心を喜ばせる歩みをしていきましょう。


 

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